カテゴリー別アーカイブ: 仏教

煩悩とは感情である

煩悩とはwikipediaによれば「身心を乱し悩ませ智慧を妨げる心の働き」とある。

貪欲とか、嫉妬とか、欺瞞だとか、色々な名前を付けて、あれやこれは煩悩であると言うふうに、

1つ1つ不愉快な概念を命名づけて定義されているわけである。

我々は煩悩を学ぶ過程でネガティブなものを命名し、

ブラックリスト型に区別するのであるが、、

…なんのことはない。

感情=煩悩である。

喜びも幸せも儚いものであり一種の煩悩だと言い切ってはどうだろう?。

煩悩と似た言葉にストレスというものがある。

ストレスとは、不快な刺激によって生じる反応のうち、刺激の種類に関係なく生じる心身の反応だということになります。
seseragi-mentalclinic.com/what-stress/#i

つまりストレスは刺激のことであるので、それが良かろうが悪かろうが、ストレスである。

煩悩=ストレス、これら同様に感情はそのまま心を疲弊させる要因である。

間違いを恐れずに言えば「煩悩とは感情である」で概ねよい。

自らの中に感情が湧いてきたら煩悩だと思えばよい。

それを捨てたり変えて解釈できないなら煩悩だらけストレスだらけとなるだろう。

我々が捨てなければいけないものは煩悩だ。

甘っちょろいことを言うな。

我々が得なければならないものは、

鬼と不動明王が好き。これらは同じものではないかと…

千手観音が好きです。何でも器用に道具を扱えそうで器用貧乏なところが。

手がたくさんあればプログラミングもはかどるでしょうし。

10人月のプロジェクトもひとりで手が足りるはず。

手にヤカンみたいなのやスプーンみたいなのや耳かきみたいなのを持っていて技術に長けていそうです。

私が子の生まれなので、十二支のお守りご本尊と一致しているということも好きな理由ですが…

十二支お守り本尊
www5.synapse.ne.jp/~todoroki/siryou/et-honzon.htm

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ちなみに、ほんとはこの中でどれが一番好きかと言われれば、不動明王です。千手観音さんすみません。。。

なんで不動明王かというと、鬼みたいでりりしいからです。

不動明王というか鬼がすきなのです。

私の鬼のイメージは漫画でいうと…地獄先生ぬーべーが左手に封じ込めているものです。

優しい顔より怖い顔のほうが、文字通り畏怖します。。。

善い意味でふらふらしがちな私をしばりつけて正してくれそうです。

手に縄を持っているのは煩悩に苛む人を縛りつけて欲望に奔走しないようにするため。理にかなったデザインです。

…強い強制力を以ってしか、怠惰な自分は立正し得ぬと思っています。

一応、不動明王は(千手観音もですが)大日如来の別の姿(化身)ということになっているようですが、私の中では鬼の化身と同じものと勝手に扱っています。関西の方だと鬼の化身だと説明してご祈祷するお祭りもあるみたいです。おそらくですが、鬼とそうは変わらないものだと思っていますので、そういう解釈のほうが正しいのではないかと内心思っています。そんなわけで、あながちこの思い込みは間違っていないのではないかと思います。恐怖というのは1つの概念/イデアに収斂されるのかもしれません。(恐怖は1つである)ま、そんなことはどうでもいいのですが、、

…というわけで、鬼と同一視できるという意味で力強い不動明王が好きなのです。

酉生まれの人がうらやましい!

これと同一体となって奮起奮闘することを是とするスピリチュアルな人は探せば出てきますが。

私もあやかりたい。。。

アチャラナータはシヴァ神。

戦闘神その破壊と憤怒をも肯定し凡夫のために働く大日如来の化身であり鬼!

なんとも都合のいい習合神であり仏さまですが…

カッコいいのでなんでもありで良いということにしておきましょう。

ネットにいる自称「悟った人」を私は信じています。

自称ですが「悟っている人」という方がネットにはよくいます。

いわゆるブッダと同じ境地にいる、ないしは、近いところにいると自称する人であります。

それを聞いた第三者は、胡散臭いとほとんどの人がその人に対して一蹴しますが、私は礼をもって接することにしています。

何度かネットの掲示板で話したことがありますし、ブログ書いているひとの記事を読んだことがありますが、なかなかどの人も似ている雰囲気がある気がするのです。

そういう人は多くは語らず謎に包まれたままです。ただし、ブッダの言う悟りはよくわかっており、同じものを自らも得ていると確信しています。

その共通項を炙り出せば、何か見えてくるものがあるのではないかと思っています。

悟った人は、悟ったことを言葉でうまく説明できないし、特に仏教者から反論を受けますが、一応の筋は通っているように見えるのです。

別にできた人間でもなければ、親切な人というわけでもありませんが、なんか不思議な雰囲気をもっています。

ブッダのあとにもさきにも悟ったものはいないという主張がある一方で、法華経なんかには様々なレベルの様々な手法で悟った者がでてきます。

話はちょーっと逸れますが、日本仏教が肯定されるには、最終的に行き着くところが同じであれば、仏教修行の手法は問わないと言わないと、日本仏教は仏教ではないとされてしまうのですが、その事情と同様に、悟り者には仏教修行をしなくてもやはり悟っているということを確信している。仏教というのは悟りを目指すものたちが集団化したものに過ぎず、特別に悟ることに修行を有さぬということであれば、統計的にまま悟った人がいるのはおかしな話でもないのではないかと思います。ですから、なんでかよくわからないけれど悟った人とはこの世にいるのだと思います。みんな、悟った人をバカにして、私が「悟った人なのかもしれない」というイフを口にすることも否定しないといけないほうが逆に何かおかしいです。

悟るということは、性欲や食欲などの根源的な欲望から解放されて新人間になることだと思っていますが、今のご時世とても便利というかそうやって生殖を否定したい人なんてごまんといるのではないでしょうか。そもそも40や50になったら性欲なんていりません。実際に社会では周囲と仲良くすることが求められます。

人に煩わされず、自らにも煩わされぬ、煩悩の火が消えた境地--涅槃は、
何らかの方法でたどり着ける場所なのであり、それを得た人は語りたがらないが実際に得ることができるのではないか。

中村元のバイアス-仏教を学ぶにあたっての諸問題-

仏教を学ぶために図書館に行ったり本を買ったりしているが、一番手に入りやすく扱いやすい文庫本サイズと言ったらやはり、中村元という人の本に行き着くと思うのだがアマゾンレビューにも批判が書いてある。中村元のバイアス/主観が書いてあるから読みにくいというようなトーンの内容であったと思われる。具体的にそれはどういうことなのだろうか。

1つは仏教に帰依したいという菩薩行的な思いが見え隠れするからということ。

加えて、中村元は、もともと仏教学を専攻していたのではなく、インド哲学が専門であるがゆえのバイアスがあるかららしい。仏教哲学はインド哲学のアートマン(自我)は無いという無我説を唱えているのではなく、「(本当の)自我はない」つまり実としてのアートマンではないがゆえに仏陀は非我論を展開したのだと主張して物議を醸したことがあるらしい。非我論的な解釈もできるのではないかということかもしれないが、事実のほどはどういうことなのかよくわからない。

『インド思想の諸問題』中村元

自我は存在するのか、自我の存在をいかにして確かめられるか、これは古来より、哲学の大問題であった。インドの一般哲学者は自我(アートマン)の存在を承認しているが、仏教では、その存在を否定した。

こちらの文章は後期のものだろうか、きちんと詳しく書いてある。我思う故に我あり。デカルトのコギト-エル-スムス的なアートマンを仏教哲学は許さない。われが存在すると思うのは我執であり仏教においては煩悩にすぎないということだ。

仏教は唯物論か?

仏教は唯物論だろうか。宮崎哲弥と呉智英が「知的唯物論」という本を書いているし小室直樹も日本人のための宗教言論で仏教の入門者は「仏教は唯物論である」というところから入門に入るのがよいと言っている。これは一理ある。

神も仏も私も妄念に過ぎない。侍2というアクワイアのゲームが昔好きだったが、これにでてくるキッチョウというキャラが破滅的な革命行動(2つの侍グループを倒す)を起こすシーンで「俺はたとえ神仏であっても切る!」というような強い口調で言っていたので、これは仏教的な批判なのであると思ったのだが、何の事はない仏教とはそもそもインド哲学というより批判の思想なのである。

神や私そして仏すら執着せずに切り離すことが仏教であるならば、このキッチョウさんは御多分に洩れずどストレートど真ん中。レースと言ったらル・マン24時間レースみたいな。それくらいの仏教徒ばりばりなのである。キッチョウは仏教批判する強い意思を持っているニーチェのような人だと思ったがそれは早とちりである。仏教はそもそも自身の教義すらそもそも批判する哲学足りうるものであるそういう意味ではキッチョウは決して仏の掌のうえで踊っている孫悟空にすぎない。

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一切のもの(色)は存在せずただ空に過ぎないというのをどっかから読んで、仏教のすべてであると思うことから私も離れていない。しばらく勉強から離れていて宗教-仏教ってなんだっけ?なんて思ってまた本を読むとやっぱり仏教は世界の空性をいかに説くかに行き着くのだというところに終着する。これだけわかっていれば仏教の何たるかなんてわざわざ学ぶひつようもない。というのは一種の奢りなのかもしれないが、それ以上に何か見えた試しがない。色々な本を読んで仏教とはなんぞやを説いてきて色々な単語や歴史や喩え話がわかったが結局のところ、源氏物語の冒頭から離れるほどの威力がない。出尽くした感があり退屈になってくるとすら思う。もちろん、それで脇にポイしていいものでもない。悟っちゃったと言う状態でもない。ふーんと思っている聞き流せる状態をまさに空を体現していないかなどというのは痴がましいか?などとループする。

仏教はライプニッツのモナド論やハイゼンベルクの量子論などに通じていると思っている。むしろそれそのものではないかと思っている。量子論など詳しく知らないが、ホントのところは理論において違うのはわかるのだが、日本人がこの辺りの分野で研究成果が認められているのは日本人が仏教の思想をしっかり持っているからだという人があるが、それはあながち間違っていないと思う。そういう意味では人の世は粒子でできているというところから世界を眺めることに日本人はわりと長けていることに間違いない。すくなくとも一神教圏の人よりかはそういう見方を普段からしている人が多いのだろう。