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心即理について。

王陽明の心即理はつきめて言えば、
自分の心の結果が外界の理(ことわり)に過ぎないという意味だと思う。

これは、自分の心が変われば外界が変えられるということ、と言い換えるかもしれないが、これだとぬるい。

そんなことは言わずして当たり前である。

逆に、私は外界の状態は自分の心の状態に過ぎないと言ったほうがしっくりくる。というか、正しいと思っている。

外界の状態とは本然の理と完全にリンクするものだからだ。

したがって至誠をもって思い通りの世界(外界の状態)を描けていないならば、己の本然の理が100%発動していないということにすぎない。

…ということは、完全な理想世界にに自分を置くにはMAX値にたどり着くことを陽明学的に実践するために心が適った理になっているかの自らの心を点検しなければならない。

そして至誠を尽くしていなければ、そして結果が伴わなければ、自らのせいなのである。

性善説は果てしなく自分に厳しく自分に進歩を促す思想であることを体感せざるを得ない。

こういうことがわかって、自らに課せれて、はじめて役立つ思想になるのだと思う。このため、

今まで言葉の外部にあるイデアとしてのロゴスというような概念は捨て去らなければならない。

一度、高校で学んだ倫理を棄てなければならない。

極論を言えば、高校の倫理は自身の苦しみを助長させるものではないか?という仮説が生まれてくる。

エリクソンとかルソーとかトックとかベンサムとかミルとかホッブズとかサルトルとかデカルトとかマズローとかフロイトとか、
マザーテレサとかガンジーとか福沢諭吉とか後なんだ???…そんなもの学んでいちゃダメなんじゃないか???

・・・とすら思うようになってしまった。

福沢諭吉が1万円札の顔になり、フランクリンが100ドル札の顔になる時点で、日本とアメリカの未来は決まっていたのかもしれない。

経済成長が悪いわけではないし、お金の顔として彼らはなかなかふさわしい人物であるからその点この顔を選んだ人はかなりセンスがあるが…まあ、そんなことはどうでもいいか。

…まあ、孟子と荀子について学ぶかもしれないが、サラリと流れるだけなのは、いまさらながらもったいない。

至誠と勉学による成果をセットにするという教育が大事なんだと思うよ。という話。