カテゴリー別アーカイブ: 思索/哲学

多様性を容認すると経路が細分化し細くなりやがて多数に飲み込まれる

多様性を容認すると経路が細分化し細くなりやがて多数に飲み込まれる。

経路を切って端末は生存し得ないまたは生存し得ても、
多数への回帰を願うなんらかの欲望がある限り、
中央/世俗から完全に離れることは難しい。

端末が自分だとすると、とても生きられそうにない。

国家の共同幻想から離れて、経済活動から離れると、物心面にも生きずらい。
例えば、自給自足をするにしても、土を耕して肥料を捲いて食べ物を収穫するより、
スーパーの方が品質がよく労力のいらない食べ物が並んでいる。
経済は殊のほか効率化が図られている。

そこから離れるのは疎外論の分析に躍起になっているマルキストが、
自分が不自由なのは貨幣経済の呪縛などだと言いだして原始的根源的な自由を志向し、
信念を持って社会経済から離れる他はないと思う。そんな信念を持つことが、
果たして自由なのか。原始的根源的な自由への信念は新興宗教の理論を信じることと似ている。
根拠はあっても根拠を説明する理論はない。ましてや理論さえも怪しい現代において、
信じるべきも寄る辺もないなかで、何かを信じられるということは、
やはりどこか、宗教チックにならざるを得ない。

反資本主義者が株を買う

前に東電の株を買え!というエントリーをしましたが、東電は買っていませんが(笑い)、東証一部の安定株を買っています。どうせならNISA口座で買えばいいと思うのでめんどうなので普通の口座(源泉徴収あり)です。ほんと適当投資家ですね。わたし一応は反資本主義を謳っているんですけど、なぜか自分のポートフォリオが日本の資本主義を代表する企業ばかりになってきたので、なんか自分自身で自分の行動が矛盾していると思っています。大矛盾ですね。

大企業を出し抜きたいと思っているわけでもなく、大企業が転覆するはずもないとも思っている。中途半端で宙ぶらりん。その日暮らしの思想は相対的で尖ったものがない。エッジがない。そう言われても反論できないポートフォリオ。もちろん、投資は儲かってなんぼ。しかし投資とは労働の搾取の結果だという思想を受け入れると投資は否定せざる性質のあるものではないか?そう考えるときりがない。考え方が極端だと思う。

まあいいか。

わかっているけど、わかっていないふりで、いきます(何

自分の可能性と他人の可能性–その多面性

どうしょうもない人がいるとする。

それを見ていた人は、このどうしょうもない人が、
自分以外の誰であっても、どうしょうもない人なのだと、
決めてかかりがちである。

「おまえみたいなバカはどこへ行っても仕事なんかもらえないよ」なんてきめてかかるのは愚の骨頂。

…そう言われてさっさと仕事を辞めるのは考えものだが、捨てる神あれば拾う神はあるものだ。

逆もまたしかり。

すばらしい人がいるとする。

それを見ていた人は、このすばらしい人が、
自分以外の誰であっても、すばらしい人なのだと、
決めてかかりがちである。

「おとうさんはなんで彼のすばらしい人柄を認めてくれないのか」
などと思ったりする。

他人の価値が個別的なのか普遍的なのか、
正しく見極められているかどうか問うことで、
正しい「他人のスペックの査定」をしなければならない。

ここまでは、誰もが簡単にできる。

なにをもって普遍的な価値があるか、
個別的な価値しかないかは主観的ではなく客観的な評価として、
その他人Aのまわりの人々を見回せば明らかである。

周りの人にモテモテであればモテモテだし、
周りの人がデキるやつと言っていればそうなんだし、
それこそ学歴や年収や年齢や顔や身長がそのまま価値に換算できるかもしれない。

無論、長く付き合うことで見えてくる価値もあるかもしれない。

まあ、とにかく、他人の価値換算は気をつけましょうって話である。

※さて。ここでもっと恐ろしいことがある。

自分のスペックの査定はどうなっているか?である。

他人の評価を間違える機会損失よりも、
自分の評価を間違える機会損失の方が、
往々にして被害損失は大きくなるものだ。

さらに、自分と他人の価値の多面性について考えてみたい。

つづきはコチラ。

激おこ六段活用の言語分析(適当)

今朝、ふと思い立ち、激おこ六段活用の言語分析を行ってみた。

日常言語の分析とりわけ女子高生なんかが生みだす言葉を調べることが、自然言語の発生起源についての手がかりが掴む手掛かりではないかと思っている。激おこ六段活用というのがテレビで放映されたことが切っ掛けでネットで流行ったが、これが秀逸なのはすべての活用において言葉の組み合わせが変化していることにあると思う。ようは、属性の種類を変えるのではなく(例えば、中段、下段、上段という言葉は、上中下という主観者からの位置という属性を変化させることによって、意味内容を変更している言葉だが)、あえて、言葉と言葉の組み合わせ/パターンを変化させている活用形であるところに、怒りを正しく伝えようとすることにたいする音韻的な工夫が際立っているということだ。実は六段活用の他にまだ上位があるらしいが、これもまたなかなか秀逸で誰がネタ考えたのか知らないが、同様に前後の言葉をただ変化させるのではなく工夫が見られて面白い。機会があったら記しておきたいものである。

おこ
→[怒っている]動態、または[怒っている]状態。

まじおこ / 激おこ
激(接頭詞)+[怒っている]

激おこぷんぷん丸
激(接頭詞)+[怒っている]+人(擬人化)
あと、ぷんぷん丸はなんだか可愛い感じがする。

ムカ着火ファイヤー
[むかつく]+着火[心の中で火が着いて]+燃えていく様子

カム着火インフェルノーォォォオオウ / カム着火インフェルノォォォォオオウ
[むかつく]+着火[心の中で火が着いて]+燃えていく様子→結果として火山になる。

激おこスティックファイナリアリティぷんぷんドリーム

激おこぷんぷん丸「激(接頭詞)+[怒っている]+人(擬人化)」が、
スティック?ファイナル(最後の?)リアリティ(現実化)ドリーム(夢想)
つまり、心的現象として今にも現出して噴き出してきそうなほどの強い想いとなっている。

取調室の中の正義

袴田事件なんてあんまり知らなかったのだけど再審がはじまったらしい。調べてみると実に興味深い事件であると思った。

取調室の職務に就いている人はなぜ残虐になれるのであろうか。そうすることによる彼らにとっての正義とは何か?

職務の正当性は何か?気になってしまう。袴田さんというと、教習所にそういう名字の人がいて、すごい怒られたので、その人を私は思い浮かべてしまう、どうでもいいことだが。袴田巌さんもひどい仕打ちをうけて「これはたまらない」と勢い余って自白してしまったように見える。最近だっけ、、無くなったリクルート創業者の江副浩正も肛門に棒をつっこまれたりして辱めを受けた。司法の闇も根深いが、その権力の背後にある人間性なき組織的な機械と化したモノがいったいなんなのか私には気になる。

※袴田巌と江副浩正を比べるのはおかしいかもしれませんが、それぐらいしか今のところ思い浮かばない/知らないだけです。

where is justice ? 英語版もあるのだね。

責任論。責任が無ければ時間も無い。

ある人が、日本の未来を責任を個人が負いましょうと言っていた。

私にはよくわからなかった。

日本の責任を私が負わないといけないことも、
私に責任があるかどうかもよくわからなかった。

日本と言う概念や自己という概念に責任を負うとは、
何であって何を根拠にそうすればいいのだろうか?

一般には、個人というものには責任が絡められる。

なぜだろうか?

私は前まで、個人に責任を負わせないと、
誰のせいにもできなくなってしまうから、つまり、
スケープゴートとして責任を負わせないと社会が機能しないと思っていた。

その見解は完全に外れというわけではないが、
それでも結構外れていると思っている。

本当は、個人に責任をかける理由は、
全体の責任を明らかにするためなのである。

グループ、そして、組織、それは地域かもしれないし国や会社かもしれない。

個人に責任がないとなると、
何が同時に起こるのかというと、
グループ全体に責任がないということになる。
誰も責を負わないのだから当然だ…つまり、
責任という言葉の意味が消失する。それはつまり、
世界は無秩序に何の因果関係も無いようでいて、
また同時に決定論的に動いているのと同じという、
矛盾にまったく無自覚になる。

論理の歯車が外れる。

作用に無自覚になり時間を見失う…
…責任が無い者の世界には時間も自己も存在しない。

何時までに何をする必要も無く義務も権利もない。
責任とはセパレーション(区分)である。

区分を完全に取っ払うと世界に論理が無い、そこには、全体しか広がっていない。

社会の秩序の為に責任は自己に懸かるのである。

自己の責任を他人に依頼するからこそそこに正当な人間関係が生じるのである。

人間関係と時間というセカイが責任によって生まれるのである。

社会人に責任があるのではない。

責任があることによって社会人になるのである。

責任制という制度が先にあると思ったら大間違い。

視覚論と味覚論

飯はわりとうまいが映画は面白いとは限らない。

…と最近よく思う。

あたりに出会う確率が少ない気がする。

美味しいと思う食べ物が他人にとって美味しいとは限らない。

面白い映画が他人にとって面白いとは限らない。

味覚や視覚が変化したのか脳みそが変化したのか分からないが、人と人によって捉え方は違う。

まてよ。味覚がおかしいとは言うが、視覚はおかしいとは言わない。

だいたい、視覚がおかしいのは視力がおかしいとか目がチカチカするとか失明したとかその手の話。

同じ感覚器でも捉え方に差がある。

とにかく、触覚器は脳みそに繋がれて反応して脳内部室を形成する。

外部対象による影響よりも内部現象の方に問題あると考えた方が正しいのではないだろうか?

映画が面白くないのは映画が面白くないのではなく、自分の感じ方が死んでいるからなのかもしれない。

映画「レオン」は昔とても感動した映画だが、今、動画サイトで見ても、その時の感動はないだろう。

1人、夜中に見て夜中に泣いていた高校生の頃の感性は、もう取り戻すことはできない、また、別に取り戻そうとも思わないが、そんな青いこと思わない。ただ、自分の心によって定められる評論その根底にある面白い面白くないという二値的な評価にいったい何の意味があるのだろうか。ない。

…ないながらも、その面白さ面白く無さを分け入る分析眼を養う。そんなこと可能なのか?

なにこのしまりない文章。

おわり。

絶対主義と相対主義

相対主義と言うのは絶対なるものなんかないという立場である。モノとモノはすべて動いており決定的な絶対的なモノなんかない…というが、そのモノは絶対的なモノではないだろうか。そのモノは確定的で絶対的なモノではないか。相対主義と絶対主義という抽象度の高い言葉は例えばこのサイズという微小なレベルで捉えると揺らいでくる。