月別アーカイブ: 2015年10月

仕事がデキる人は常に自分の欲望に正直である。

仕事がデキる人は常に自分の欲望に正直である。

まず、逆のことから言っておこう。

仕事とは他人のためにやることだと思う。

他人のためになること、自分がつくりだした商品やサービスが他人のためになったとき、
他人のお金がもらうことができて、自分が生活できるのである。

したがって、他人のために仕事をやっているのだ、ということを常に考えなくてはならない。

…ということは、確かにそうなのだ。

しかし、他人の笑顔とか他人の喜びが、
じゃあ自分のモチベーションになるかといえば、多くの人がなる!と答えるが、
それはいささかあやしいのではないか。…と私は最近よく思う。

例えば、ITのサービスは動いて当たり前であり、
そんなものに人は喜んだり笑顔になったりしない。
という側面があるだろう。

動いていなければ他人/お客は、怒り出すだけ。

動いていて空気的にそれを使える。

ここに感謝とか笑顔とかいうものはない。止まればお客が怒り出すだけ、
使えないサービスであれば、ポイと捨てられるだけ。

あたりまえに感謝をしろ!とかいう人がいるがバカである。
当たり前ののことは当たり前だから感謝ができないのである。
あるときにふとありがたいと思うことはあっても、
水も空気も平和も情報も食べ物も安く楽に手に入れば価値は下がり、
ありがたさはわからなくなる。

それをわかるようになれっつーのは、いささか乱暴じゃないか。

日本人は平和と水はただで手に入るとか、
イザヤ・ペンダサンとかいう偽ユダヤ人が言っていた(苦笑)と思うが、
そういう感謝の気持ちをわき起こす宗教性みたいなのは別に否定しないし、
好きなほうであるけれど、こと自分の本業である情報を処理してクライアントに与えて、
「ほら、おまえ、ありがたく思え」とは決して言えない。

情報革命が終われば情報など自由に使えて当たり前で、そこに、喜怒哀楽は介在しない。

仮にそういう感情があるといえば、
メディアのコンテンツにしか無い。コンテンツを作成している人が、
人の喜ぶものを提供して、そういうことがヒーローインタビューの時に言えるだけだろう。

堀江貴文も言っていたが、最終的に残る産業は創作…コンテンツ産業だけで、
それ以外はITでオートメーション化してしまうと言っている。

まあ、それはいいのだが…話を戻すと、

…つまり、他人のためにやるのが仕事なのだが、自分のためにならなければ現代的な仕事はなりたたない…、いいや、
よく考えて見れば、昔から、仕事というものは自分の生活のためにやるのであった…そのところを大切にしないと、
実はやっていられないのではないか?というのが私の主張するところである。

他人というものをまったく意識しないと失敗するのは明確なのだが、
自分というものもまったく意識しないと失敗するのであるといいたい。

どちらの欲求も満たさないと結局はうまくいかないということになる。

まあ、現代的には、自分の生活を大切にしようと言う左向きの思想がのさばっているのだが、
それがよいというわけでもない…仕事をするために自分の生活を犠牲にすることはないが、
自分の生活を犠牲にしなければ他人からお金がもらえないならば、
その仕事が善いか、その仕事に就き続けることが善いかどうかは、
判断しかねるものの、継続して従事せざるを得ない場面はおうおうにしてあるだろう。

で、継続可能性という意味でどちらも大事なのだが、
卵が先か鶏が先か的な話になってしまうのだが、
お客の笑顔と自分の笑顔のどっちが大切か?と言ったら…
断然、私は自分の笑顔が大切なのだといいたい。

自分がうまくやっていける自分が楽しいという状態を維持しつつ、
他人のためになってお金がもらえる=市場的に価値がある商品やサービスを提供できる、
という順序になるのではないかということ。

楽しくない続けられない仕事を、他人のためだからと割りきってやるのは、
一時的に経済的には金が回るが持続性がないためトータルで非生産的な状態にある。

苦痛だから給料は我慢料だと割りきらなければいらない仕事があるのも事実だが…それで儲かり生き残るは、
疲弊した労働者を使い回すことができた所有者にほかならない…
これは労働者の持続的な生活がままならぬという点で人道的に問題があると思う。

自由競争、市場原理、これらの資本主義経済の性質は、
「見えざる神の御手」を信仰せねばならない前提がある。

アダム・スミスは、倫理のない市場原理を認めなかった。

自分のための、祝福される働き方というものを、今一度、問う必要があるのではないかという思いは、
10年ぐらい働いた今、どんどん強くなってきている。

さて。なんだか、高尚な話になったが、私的には私利私欲というものは、
他人がそこにないから問題なのであって、他人の影をきちんと見た上では、
自分のためになることとして労働にうちこまないひとは大成しないということだ。

仕事ができるひとは、自分のために働いている。でも他人のためにもなっている。

こういう場合が多い。嫌々やっている人は、みんなそれを分かってしまう。

だから、仕事の本質(他人のため)を見失わないようにしながら、
いかに仕事を自分のためにやるか、もっと言えば自分の欲望のために動けるか、という、
原理原則に沿った環境構築ができるかどうかが、仕事ができるかできないかの分水嶺なのではないか。

と、言いたい。

ブログは、書かなければ書かないでいられるが、書いていると書かずにはいられなくなる。

ブログは、書かなければ書かないでいられるが、書いていると書かずにはいられなくなる。

酒や煙草やスポーツや勉強でもそうだが、はじめるとやめられなくなる性質(たち)である。

というわけで、最近は、予約していた記事がすべて出て行ってしまい、書き貯めていないので更新が鈍い。別にそれはそれでいいのだが、書かないならばブログの寿命は終わってしまう。PVがそこそこ増えてアフィリエイト収入も安定してきたので、きちんと検索エンジンの最適化の波にのるためには、ひとえに更新し続けるということはマスト条件なのだということだ。数年前のWebサイトでも高いPV率を誇るところもあるけど、個人ブログの寿命は早い。動き続けることが肝要である…

つーわけで、なんか策を考えよう。月4桁は最低でも儲かるようにもしないと、モチベーションが上がらないっていうのもあるw

「愛」という輸入品について。聖書を読まないから騙される!?

愛の定義は、もともと日本にない思想であり、その源流はイエス・キリストのアガペーに行き着く。

愛とは人を愛するということだが、これは如何に相手のために奉仕を実践するかという建前である。

建前だという言い方に怒る人もいるかもしれない。

この愛の実践とは意識的に行うことが求められるが、これはとてもむずかしい…その難しさは聖書を読めば分かるだろう。

誰もイエス・キリストのようにはなれないと思うに違いない。

イエスは神の子だと思うしか無いレベルで誰もが認める聖人だ。

大切なことなのでもう1度言うが、
無償の愛とかなんとかいう言語化され行動化された我々の感情は、
キリスト教の思想なのである。そして、それは、人類の発明品でもある。

例えば、最近、私は仏教者だと自覚することにしたが、とても仏陀の教えに忠実に従えない。

聖人になるのは極めて難しいのだ。

その難しさを見ても、残念ながら愛というものは建前なのだということは、誰しも頷かざるを得ない。

愛の実践とはそれだけ見返りがあるかもしれないが、
それだけきちんと実践することは十字架に張りつけられたイエスでなければ難しいことなのである。

そう簡単にできないことを、人に強いるとしたらそれは危険思想になりうるだろう。

だが、そういうことを平気でやる人間がいる。

自己啓発的なことを口にする経営者である。

言っている本人が本当にできているなんて私は信用が出来ない。

無償の愛を持ちなさい。思いやりを持って仕事に打ち込め!
成功できないのは他人に奉仕する心が足りないからだ…真っ赤なウソである。

…どっかの上場企業の居酒屋の経営者が言っていたように24時間働け!と言うことの裏側には…できなければ社会への愛(アガペー)がそして情熱(パッション)が足りないと従業員を怒る姿があるだろう。自己啓発の源流が聖書にあるのは有名な話だが、実は自己啓発的な綺麗な言葉を並べている経営者は、それを知ってか感得してなのか、善だと思っているのか悪だと思っているのか、不明だが、キリストの思想を利用して人を動かしているのだ。聖書の思想を悪いことに利用していないか疑う必要がある。

モンスト日記。23日目でランク74。

最近はモンストばやりにのって真剣にモンストやりはじめました。

あと個人的にmixiはわりと批判ばかりしているけど好きだし…ね。たぶん。

まあ、知り合いがやっているところが大きいですが…

…ので、そろそろプレイ記録。

480円の初心者パックのみを購入したほぼ無課金ユーザーです。

9月末の獣神祭でリセマラしてルシファーをGETしやっと数日前に神化しました。

別にルシファーいなくてもクリアできたけどノマダンが終わりやっと降臨を攻め立てる準備が整った感じ。

試練の塔だっけ?でバクーレンの運90をつくった。ついでにドガフィールの運90もできたけど、どうでもいいぞう。像だけに…。

Gamewithの運90掲示板で亀クエを回っている。

どっかのタイミングで運極が作れればいいかなーと思っている。ランクは74。
スタミナ二分の1か経験値2倍の時にがんばれば80くらいは余裕で越えたはずだが
時間がなくていけなかった…ので金曜の今はレベリングしながら少し研究しようとかと思っているところです。

ヒカキンとかマックス村井の動画とかmixi広報担当の動画とかみないとダメなんだと思います。

BOX内で使えそうな☆5のガチャ限は、
ルシファー、ジェラルド蒼野、茨木童子α、武田信玄、ブリュンヒルデ、トール、ギルガメシュ。

特化型が多いきがします。だからか、苦労しましたが…特定の降臨ではつよい子たちです。たぶん。

真剣になれない病

会社とか家族とかいう理由を勝手に掲げられて、
知ったふうなことを他人に言われるが…私の口から言ってしまえば、
そんなものどうでもいいのだ。一人だけの問題じゃあないので、
どうにかなるとは言えないが、
明日パンが食べられないくらい困窮することは、
ふつうはないはずであると思っている。

ただし、パンが食えればいいというところに落ち着く気はないが。。。

私は、自分は真剣になれるのだろうか?ということが知りたい。

私が起業をかつてしたが、自分は命をかければ真剣になれるかどうか試したかった。

本気になりたかった、本気とはなんだったか。

これは男の永遠のテーマなのかもしれない。

ドラゴンボールZの超(スーパー)サイヤ人というか悟空は追い込まれて仲間が殺されると怒るとと強くなる。

まあ別に返せないほどの借金をしたわけでもないので命をかけていたかどうかアヤシイ…

…結果は惨敗…プライドも恥も捨てられず本気だったか怪しい。

自分の限界を昔は見極めたつもりだったが、もう1度だけ確かめたい…というより、
毎日なのか1周間なのか1ヶ月なのかわからないが期間限定で必至に努力をスルでもいいが、
別にお金をいくらつぎ込んだかが自分のふんばりがきくかどうかはあんまり関係ないのではないか。
とも思う。本気になっている自分に酔いたいなんていうのも一種の甘えにさえ思える。

本気になれ、しかし本気に酔わず、成果を出すために愚直に突き進め。

後になってはっと気づいた本気はそれだけ周囲が見えている証拠かもしれないない。

冷静に頭が働くほど本気になれない…歳を取ると本気になれないというのは、
失敗リスクが経験によって頭によぎりやすくなったがゆえに集中力が切れた状態であるだけではないか。
とも思う。本気になれないということは能力でも年齢のせいでもない。
それらはまったく関係ないものではないが間接的な理由に過ぎず直接的な理由に過ぎない。
結局のところ30代40代50代で自分を縛るのはただたんに自分自身の固定観念のせいなのだ。

その固定観念のリミッターが凝り固まる時期に、いい意味で、
如何に柔らかくソフトにするかが求められているように思う。

集中できないことは然るべき当然の結果だがそれで熱狂的に真剣になるには…まだまだ色々と考えないといけないし、
いや、考えずに突き進むべき時なのかもしれない。そのどちらでもある。ジレンマに立ち向かう。

小見山えり。初美山えり。初宮参り。

お宮詣り。と打とうとして、
おみやまえりと打ったら「小見山えり」という人名が出てきてあれー。
こんな間違え方をするのは私だけだろうか?

7月11日はお宮参りでした。
初宮参りと言う方が正しいか。
生後30日の儀式。
子供が生まれて約1ヶ月。

とにかく子に元気に育ってくれと願うばかり。

とりま団塊左翼世代のおじいちゃん(私の父)に頼んだら、
「うちは無神論者だから」いかないと言われました。

のり悪いな。

おじいさんというものは、
夫婦と孫をどういう目で見ているのかよくわからない。
別にどうでもいいけど。こえかけただけだから。いかないのは見越して。。。

神社の中に入って神様にお参りしたのも初めてで、
葉っぱを1回転一捻り渡すのも初めてでよくらからないことだらけ。

なにせ二礼二拍手一礼も大人になって覚えたくらいウチはそういうの親が嫌いなので、
教えてくれませんでしたので。

こういう機会がないので、とても新鮮だった。

「日本人として〇〇するべきだー」みたいな言い方は好きじゃないんだけど、
もっと神道や皇室や日本神話については勉強してもいいだろうとよく思いますが、
あらためてそうまた思いました。
伊勢神宮が崇敬神社?のご本尊?だからいつか行こうと思います。

神主に祝詞を上げてもらっていて、
その意味がよくわからなかったので後で調べてみようと思いました。
スサノオノミコトがなんたらかんたら言っていた。

初穂料(5000円)は事務所の人に渡したのだけど、
あとで儀式を執り行った後に神主がお見送りしてくれたが、
その時に渡した方がよかったのではないかと心配になりました。
まさかとは思うが初穂料を待っていたということではないよね?
初宮参りの時は先にお金を渡しなさいとかWebで調べていたからそうしたのだけど。
そこだけなぜか変な気分になった。
まさか、事務の人と神主で意思疎通がとれていないわけないが。
先に渡すより後に渡したほうがよかったように思ったのでした。
ルールとか先に決めておいてほしいわ。

初宮参り記念としてでんでん太鼓や張り子の犬の置物がもらえたのものよかった。

最後に、うちのこはとにかくこの世知辛い世の中を無事に幸せに生きて欲しい。

なぜかネガティブなので、数ヶ月で亡くなってしまったお母さんのブログ記事とか読んでいます。

ただ良い子に育つのももちろん望みますが、ただ生き残ってくれることが親としての願いです。

細君は「死に目をみたい」と言っていましたが、ふつー逆じゃあないかと。
看取りたいというより、看取ってもらいたいというのが、歳をとって思うこと。だと思う。
まあ、私は看取ってほしくないが。。。
猫じゃないので最後までめんどうみますというのはおかしいはなし。

儒教的な考え方のうち好きじゃない考え方の1つなんだけど、
「親より先に死んだら不幸もの」というのは確かにそうだと思うところもあります。
子供に責任を押し付けるのも変な話ですけど。とにかく子供のしごとは日々生きて成長すること。

UTF-8のCSVファイルをcatコマンドで連結したら文字化けした!?

以下の様なコードを実行した...。

cat *.csv > convert.csv

出力されたconvert.csvの中身が派手にぶっ壊れている。

もしかしてcatコマンドは古いツールだからUTF-8に対応していないのか?

BOMとかそういうのが悪さしているか?

...色々と考えた結果、

すでにconvert.csvというファイルがあって、
それを*.csvとしてワイルドカードでまとめている、
つまり、マッチポンプっつーか、再入力しているっつーか、
アウトプットファイルがインプットファイルにもなっているため、
壊れていたもよう...。

残念な間違い。

1万年の時は一瞬にすぎない。

時間など経過してしまえば一瞬だ。

5年も10年も20年も30年も一瞬だ。

織田信長は、50年…夢幻の如くなり、と敦盛を踊った。

吉田松陰は、100年の時など一瞬に過ぎない、と語った。

戦国時代は50年現役だったら万々歳ということなのだろう。

吉田松陰は命を越えて成すべきことがあると考えていたから、人間の一生など一瞬だと言い切る表現を使ったのだろう。

人類の文明などたかだか5000年くらい前のことしか分かっていない。

せいぜい数万年前にの類人猿がいたという痕跡しかわからない。

100年はあっというまだが、その100倍の1万年も、たいした時ではないことがわかると、
これまでの変化はたいした変化だとはとても言えない。

人類の歴史は人間の人生の100倍程度に過ぎないのだ。

子供が5ヶ月になろうとしているが、一瞬だった。すぐにはいはいして、喋り出す。
幼稚園、小学生、中学生、高校生の入学式と卒業式がやってきて、そのうち、ヴァージンロードを歩くのだと思っている。
そしたら人間50年過ぎ…もう後がないwまあ、そこまで行けるのかも謎だが、今の健康レベルならば、多分大丈夫だろう。

そういうわけで、子供が早く育つとかいう思いを人類の歴史レベルまで押し広げて妄想してみた。